最近、益々、OFUKU & 長谷川高士が目だっているようで、またまた取材を受けました。
長谷川高士がなぜ、OFUKUになったのか?
等々さまざまな事が解る!!
ライターの森きわこさんが長谷川高士とOFUKUの半生を綴ってくださいました。
主婦と生活社の長寿雑誌「週刊女性」の人気特集”人間ドキュメント”で6ページに渡り掲載してもらっています。
このページのライター森きわこさんは、過去にも草野仁さんや残間里江子さん、京都大学発酵学の権威、小泉教授などが出ている特集です。
ありがたいことに、取材依頼を頂きました。
OFUKU & 長谷川高士もますます人を笑わせ癒しをもたらしたいと、改めて意欲満々です。
STグループを率いる笑と元気の火付け役としてあり続けたい!!!是非、皆さん記事をご一読ください。
2015年1月、都内某所で行われた年始のパーティに、艶やかではりのある声の口上と鈴の音が響き渡った。
「はるか、お江戸から参りましたお福でございます! この私の顔を見た方は必ず幸せになるとか、はたまた不老長寿を叶えるとか。さらにはこのおいど(腰)に触れると開運間違いなし!」
水白粉に島田髷(しまだまげ)を結い、縁起のよい「青海波」柄の詰袖を引摺りながら、パーティの場を大いに盛り上げる。
この女形の名前はお福さん。祝いごとや盛運を願う人々が集う場面に出没するが、近ごろでは日本文化を伝える祭典やチャリティパーティなど海外のイベントにも呼ばれる。時には文部科学省の留学キャンペーンからも依頼を受け、言葉を超えたコミュニケーションについて話をすることも。ひっぱりだこの-福の神-なのだ。
ところで、お福さんとは何者なのだろう。
扮するのは、長谷川高士さん(51)。有名人セレブを含む3500組の披露宴を担当したカリスマ司会者である一方で、ウェディングの総合プロデュースを行う株式会社ハセガワエスティの経営者の顔を持つ。
現在、ハセガワエスティに所属する司会者は約300名。ウェディングの司会だけで年間18,000組を受け持っている。国内の名だたる高級ホテルやゲストハウスと専属契約を結び、大躍進するブライダル司会・演出業の最大手だ。長谷川さんは映像や音響、婚活エージェント、コスメの海外ブランド輸入販売業の3つのグループ会社の会長も務めている。
そんな凄腕の経営者がなぜお福さんになるのか?
きっかけは、23年前、長谷川さんが28歳にして家業の借金20億円を背負ったことにある。
「大学を出てそれまで実家の家具店をやっていたのですが、店は儲かっていたし、ゆくゆくは社長になって、そのうち参議院議員にでも出るか、なんて甘く考えていたんです(笑い)。
ですから借金を背負った時は、落差がすごくて、”なんで?うち金持ちだし、将来こういう道筋でしょ?こんなはずじゃない”と現状が受け入れられずに、3から4年ふらふらと過ごしていました。もう八方塞がりで……。
そんな時、たまたまかつらと衣装があったんです。それで”これを着て銀座に出ていったらどうかな?”とただ意味もなく、誰に頼まれたわけでもなく、もうどうにでもなれという気持ちで出かけていったのが最初です」
高度成長期まっただ中の1963(昭和38)年10月、千葉県千葉市中央区に長男として生まれる。実家は1908(明治41)年から続いた家具店。
祖父はもともと桐箪笥の職人で、東京の本所太平町(現在の東京都墨田区太平)で家具の制作、販売を始めた。関東大震災に遭った後は地元の千葉に戻り開業する。最盛期には、10人ほどの職人が住み込みで働いていたという。
父・陽祐さんを含め2人の叔父達は職人にはならなかったが、共に家具店の経営に携わっていた。
日本の生活様式が変わり、和室や、着物を着る人が少なくなると、桐箪笥の需要も減ってきた。それに合わせて、時代に合った洋物家具を中心に仕入れて売る業態に転換し、1964(昭和39)年、千葉駅の近くに店舗を開くと、たちまち繁盛した。
長谷川さんは1人っ子で叔父達にも男の子がいなかったため、小さい頃から3代目の後継ぎとして育てられる。
「小学校に上がる前から店によく遊びに行っていました。お客様の中には千葉の豪農の方が多く、田植えの終わった4月の終わりから5月にかけてと、収穫後の10月から11月にかけてが結婚のシーズンだったようで、その半年くらい前から婚礼家具を買いにくるお客さんで大賑わいでした。おじいちゃん、おばあちゃんを先頭に家族6から7人で来店して、何時間もかけて家具を選ぶんです。昼時になると、近くのお蕎麦屋さんから天ぷら蕎麦をいっぱいとって、お客さんにふるまってましたね。それはもう、一大イベントという感じでした」
また長谷川さんは、家族にせがんで、よく近所の千葉神社にも連れていってもらった。雅楽が流れ、舞姫が舞う婚礼の儀を、飽きることなく眺めていたのだそうだ。
「昔は大安になると土日に関係なく結婚式をやっていました。そこで神主さんの祝詞を覚えては、家で真似をするんです。しゃもじを握って “只今からなんとかの??”って(笑い)」
1972(昭和47)年、実家の家具店は”近代家具のハセガワ”と改名し、県道沿いに大型店舗第一号店、続けて成田市にも第二号店を建て、事業を拡大していった。
経済的に恵まれ、何不自由ない環境で成長していた長谷川さんだが、ある日、大きな悲しみが襲う。小学校入学前の6歳で、最愛の母親を失ったのだ。
母・律子さんは心臓弁膜症を患っていて、お産をすると自分の命を落とすおそれがあると言われていた。一度流産した後、長谷川さんを身ごもり、何としても産みたいと命がけで出産した。
律子さんは出産後も通院が欠かせない状態であったが、長谷川さんに溢れんばかりの愛情を注いだ。長谷川さんも、やさしくてきれいな母が大好きだった。
律子さんの寝室はいつもとても暖かくしていたので、長谷川さんは父・陽祐さんと隣の座敷で寝ていた。目が覚めると襖を開けて母の寝床へ潜り込み、甘えるのが習慣だった。
「あれは従姉妹達を家に呼んでクリスマスパーティーをした翌々日の朝のことでした。いつものように母の布団の中に入ったら、布団が冷たく、母の顔を見たら、真っ青でした。”ママ、ママ”と何度も泣きながら大声で呼んでも全く目を開きません。おやじも名前を呼んで母を抱き上げましたが、ぐったりしていました。
すぐに救急車で病院に運ばれましたが、すでに息が絶えていて……。朝方の心臓発作だったそうです」
33歳の早すぎる死だった。
長谷川さんは、美しかった母の顔を忘れまいと、アルバムを繰り返し眺めるようになった。父は辛さを紛らわせるために仕事に没頭し、夜は接待で帰りが遅くなる。
祖母や叔母達など、たくさんの人が長谷川さんの面倒をみてくれたが、寂しい気持ちは埋められなかった。
「叔母さん達がどんなに気にかけてくれても、それぞれ子どもがいるので、自分はその次なんだということに子どもながらに気がついたので、2番手であってもたくさん可愛がってもらうには、どうしたらいいんだろう、どうしたら喜んでもらえるだろうといつも考えるようになりました。
今、司会やお福をしていて、自分がどう喋ってどう動いたら皆に喜んでもらえるかをいつも考えているのは、幼少の頃からの習性がしみついているからかもしれません」
高校卒業後は、中央大学商学部に進学した。学校を出たら家に入ると考えていて、周囲もそう期待していた。家業が好調な中、卒業後、予定通り家具店で働くようになる。
長男の伯父は不動産業、次男である父親は本家の千葉店。三男は主に卸しを担当し、四男は成田店を経営していた。それぞれに別会社であったが、お互いに株の持ち合いをし、金銭の行き来もあり、保証し合う関係だった。新規事業を立ち上げた叔父に名前だけ貸して欲しいと頼まれ、23歳で名義上の社長になったこともあるという。
80年代後半からはバブル期を迎え、資産価格の上昇と好景気が起こる。家具店は広い土地を所有していたので、銀行が積極的に貸付けをしてきた。親戚中で、株の売買や不動産投資、海外の物件の運用に手を出すようになる。
「おやじや叔父さん達の、今日は株で何千万儲かったというような話を、そういうもんなんだぁと近くで聞いていました。バブルが崩壊してそれらがだめになった時、本業の商売だけを普通にやっていればよかったのにと思いましたが」
バブル崩壊後、長谷川さんの連帯保証人としての債務額は、20億円になっていた。
「20億円なんて見たことがないですし、大きな家や店舗も売り手がつかず残っていましたから、ぜんぜん実感がわきませんでした。でも若い世代は自分しかおらず、背負うしかないというのは事実で……。こんなはずじゃないと、時代だとか、経済だとか、おやじや叔父さんたちを恨んでましたね」
当時、長谷川さんは追いつめられながらも、どうしてよいかわからず、学生時代の仲間に誘われては、芝居をしたりしていた。
そしてある時、舞台で使っていた芸妓(げいこ)のかつらと衣装をつけて、街に出たのは前述の通りである、
芸妓の格好で地下鉄に乗り銀座を目指した。車中、ジロジロ見る人、気になってしょうがないけれど横目でチラチラとだけ見る人、存在しないものとして全く見えないふりをする人……と反応は様々。
銀座の歩行者天国に降り立って歩いていると、”何をやっているんですか?”と若い女性に話しかけられた。
「その子と2から3時間、お茶を飲みながら他愛のない話をしました。”今度いつ来るんですか?”と聞かれたので、”じゃあ来週また来ます”と。そう言って別れた後、”あれ、今暗い気持ちじゃなかった。わくわくしてたし、普通に話ができていた!”と気づきました。
それで次の週、その子が友だちを連れてきたので、もっと勇気が出て、いろんなところへ行ってみようかと日本橋まで繰り出してみたり。別のキャラクターになることで、自分が救われているのがわかりました。
そんなことを続けているうちに、今、自分が置かれている状況は大変だけど、まだ大丈夫、やれるかもしれないと思えるようになったんです」
お福という名前は、ある晩、予言者のような神秘的な女性にバーで出会い、突然”おーい、お福!”と呼ばれたことをきっかけに名乗るようになった。
最初は自分が元気になるために始めたお福であったが、 会った人に”あんたに会うと元気になるよ”と言われるようになり、長谷川さんの中でお福の存在がどんどん大きくなっていく。
お福で人を喜ばせ、笑わせることで、自分も楽しくなる。それが、今も長谷川さんがお福を続けている理由だ。
自分を立て直そうとしながらも、何をして生きていくか決めかねていた長谷川さんに、方向性を決定づけるふたつの大きな出会いがある。
その1人が、長谷川さんが本気で司会をやろうと思うきっかけを作った、現在はハセガワエスティで司会部のチーフを務める奈良信一郎さん(46)だ。奈良さんが出会った時の話をしてくれた。
「長谷川さんの芝居を人づてで観に行ったのですが、江戸人情喜劇という感じで面白かったんです。長谷川さんは主役ではありませんでしたが、とても人気がありました。
幕引き後に紹介されたのですが、後から御礼の電話をもらい、感激したのを覚えています。自分のような若造のことなんて忘れているだろうと思っていましたから。
それからプライベートでのお付き合いが始まったのですが、長谷川さんが家業のことで大変だった事情は全然知りませんでした。つらいところを周りに見せないというか、弱音を吐いたりすることがない人だったので、楽しそうにしている姿しか知らなかったのです」
長谷川さんは奈良さんがしていた司会の仕事を面白そうだなと横から見ていたそうだ。
ある時、奈良さんに”仕事のダブルブッキングをしてしまったから助けてほしい”と頼まれて手伝ったことから、で、自分もやってみようと思い立つ。もともと大学のサークル活動でイベントの司会の経験があったため興味があったのだ。
そう切り替わると行動は早い。プロダクションに所属して研修を受けた。
ここで、もうひとつの出会いがある。長谷川さんのインストラクターを務めたのが、元夫人で今もビジネスパートナーである阿久津五代子さん(50)だったのだ。
阿久津さんは当時の長谷川さんについてこう語る。
「長谷川さんは、そのころ体重が100キロあって角刈りで、30歳ぐらいだったのに45歳ぐらいに見えて(笑い)。最初にレッスンをした時、この人に司会なんてできるわけないと思いました。
ところが二回目になったら、前回の課題をクリアしていて、スムーズにこなすので、この人、できるなと思いました。何がなんでもこれが自分に向いているに違いないからものにしようという意気込みがすごくて、本気だったんです。それからあっという間に人気司会者になっていきました」
真剣に取り組んだ理由について長谷川さんは言う。
「それまでの自分を捨てて、自分が変われてからは、今はしかたない、一つの司会を一生懸命やればいいんだと思えるようになりました。借金を返すなんてことはできず、焼石に水だけど、現金まで銀行は持っていかないから食べていけると」
また、小さいころから自分を表現する仕事に憧れていたが、家を継がなければならず、やりたい気持ちを封じ込めていた。家業が行きづまり、お福をやるようになって、司会業に出会い、結局自分の好きな方向にぱちっとはまっていったという。
90年代後半になると、披露宴の形式が変換期を迎えた。世の中のニーズが、結婚式場やホテルの決められたパッケージではなく、レストランでのウェディングや、個人の要望が反映されるようなオリジナルなものに変わってきたのだ。
「そのタイミングに居合わせて、これは真剣に何か新しいことをやるしかないと思うようになりました。これまでにないような結婚式をやりたいと思うお客様がたくさんいらしたのです。そうなると全体をプロデュースする必要性が出てきました。
自分は1司会者だったのですが、ヘアメイク、フラワーアーティスト、ドレスの方にも、もっと自由に演出できないかと考える人たちがいて、一緒に新しいスタイルを作っていこうという話になりました。
司会者として結婚式全体に目配りして、チームで動いていたら、そこに仕事がくるようになった、それがブライダルプロデュースの始まりです」
取引先から独立してやって欲しいと言われ、その決意をする。当初は家具店の中にブライダル事業部を設置してやっていたが、業績増加に伴い、2000年にハセガワエスティを立ち上げた。
新郎新婦のこだわりを実現するサポートをし、司会や音響、映像撮影などトータルでサービスする体制を整えていくうちに、ハセガワエスティは前述の通り司会・演出業最大手に成長していった。
長谷川さんは、まず阿久津さんに家の事情も話した上で、独立の協力をして欲しいと頼んだ。阿久津さんは、事務所の運営の大変さを知っていたので、初めは反対したが、長谷川さんの中に光るものを認めていたので、この人にかけてみようと思う。
結局、同じ取組むなら一緒に結婚してやる方がいいということになり、2人は1997年にゴールインする。
1男1女にも恵まれ、長谷川さんの父と再婚した母の応援を得ながら子育てをし、二人三脚で債務の処理にも取り組んだ。
銀行が統合し不良債権を処理することになり、競売で20億円の土地が1億円で売却されるなどして、借金が相殺されていった。バブルの処理には約15年の年月を要した。父や叔父達も皆リタイヤし、1人の叔父以外は皆、亡くなっている。
ブライダル事業も軌道に乗り、経営は安定していったが、夫婦としての2人は行き違うようになっていた。直観的に行動するところがある長谷川さんと、常に透徹したことを求める阿久津さんとの間に摩擦が生じていたのだ。結婚生活は6年で幕を下ろす。
ところが、仕事上、2人のコンビネーションは申し分がない。ビジネスパートナーは解消せず、共に働き続けることにした。
長谷川さんは、母と子どもたちと一緒に住み、阿久津さんは新しい伴侶を得て、また1人子どもを授かった。阿久津さんは言う。
「離婚はしましたが、毎日長谷川家に帰り子ども達と一緒に過ごしています。今の夫も理解を示してくれています。両家の子ども達は小さいころから交流させて、一切嘘は言わないできました。
長谷川さんと私は双子の兄弟みたいな関係でしょうか。どっちが上か下かは時として変わる感じですが、兄弟だから喧嘩もします。
でも、いいところは昔より見えるようになりました。長谷川さんはいつも人を受け入れ、自分に余裕のない時でもやさしい言葉をかけられる人です。そこが偉いなと思いますし、見習いたいと思っています」
長谷川さんは、自分達家族のあり方について話してくれた。
「阿久津さんのことは頼りにしています。正直、頭が上がりません(笑い)。普通の父親像、母親像というのがありますが、我々はそれには全くはまっていない。ある時、もう”普通の”というのは止めにしようと話し合いました。
子ども達には、離婚後もこうして一緒に働いていることが、幼いころは理解できないかもしれません。でもいつか子ども達のためになると思い、自信をもってありのままを見せることにしました。それ以来、お福も勇気をもって見せられるようになりました。
表現の仕方は皆違って、それぞれに思いがあるので、無理をせず、自分なりでよいのではないかと感じています」
長谷川さんの”お福活動”も20年以上に渡り、年々ファンが増殖中だ。
お福の清らかさに魅せられているという友人の俳優・片岡鶴太郎さん(60)がこう語る。
「お福になった時の長谷川さんは、何か憑依した感じがあっていつもの長谷川さんとは違います。いわゆるショー的な女装キャラクターとは異なり、作られたものを演じているという感じではないんです。
人生のどん底を味わって、一回自分を捨てた時にお福さんが現れたと言ってましたから、それはすごく説得力がありました。憑依することによって自分の人生が助けられた、長谷川さん自身が福を得た実体験があるんですね。
一歩間違うとキワモノゲテモノになってしまうのですが、長谷川さんの心に俗っぽさがないから、姿や精神が綺麗だと思うんです。そこがお福さんの一番好きなところですね」
また、長谷川さんの感性と共鳴して、ともに変装に興じる練達がいる。作家・島地勝彦さん(73)だ。自らも特注のかつらとM字ヒゲを装着し、レオナール藤田を憑依させている。
「究極のお洒落が変装なんですよ!安っぽいのはよろしくないが、長谷川の女形は祇園でも認められた本物だ。僕は美しく化けたお福さんが大好きなの。長谷川は”両性具有”なんじゃないかと思ってる。
なぜそんなに親しいのかと聞かれるから、”これは俺の新しい愛人だよ”と言うと、本気にする人がいる(笑い)。精神的な愛人って親友ですよ。
長谷川と阿久津の”愛情くずれの友情”もある。普通は離婚したら生涯会わないとか、恨みになっちゃうものなのに……人間はいろんなパターンの愛情を持っているんです。素晴らしいじゃない!」
鶴太郎さんも島地さんもそれぞれに”お福観”を持ち、お福を愛おしんでいる。長谷川さんが投影したお福を好きなのか、お福が投影した長谷川さんを好きなのか、もうわからない状態になっている。
最後は改めて長谷川さんにお福について語ってもらった。
「自分は追い込まれてお福になり、自分と向き合うことになりました。それはどんなきっかけでもいいと思います。
誰にでもすべてが面倒になったり、もうだめだと思う時があると思います。そういう時こそ、違う自分になることで、元気になれて、いい考えも浮かぶかもしれません。
お福を見て、”ああいう人もやっているのだから、自分もまだやれるかも”と思ったり、ただ”何あれ!?”と笑ったりするだけでもいいので、人のスイッチを入れ替えるきっかけになれたらと思います」
さらには……
「お福をしていて困るのは、”奥さん、そっちは男性トイレですよ!”と呼びとめられること。夢は、お福で聖火ランナーをすることです!(笑い)」
どん底で救ってくれたのは、お福と元妻。司会者と経営者と父親と、なりたい自分になれた。
今がこの世の春と穏やかにほほ笑むお福に、やさしかった母の面立ちが重なる。