今回は日経デュアルで紹介された、OFUKUと私の昔をご紹介します。
以下は、原文を引用してご紹介しますね。
「自分をさらけだせば、運は開ける」OFUKU”夫婦”インタビュー
水おしろいに島田髷。美しい着物姿。写真の見目麗しい女形は、人呼んで「お福さん」。OFUKUの名でお祝いごとの席をはじめ、海外に日本文化を伝える祭典や最近では文部科学省国際教育推進課の招きで全国の高校や企業などで社会貢献を目的とする講演会に引っ張りだこ! 実はこのお福さんに扮する人物はブライダル業界に新風を巻き起こした実業家、長谷川高士さん。
これまでに3500組以上のセレブ婚を司会、総合プロデュースしてきた株式会社ハセガワエスティの代表取締役会長です。その隣で笑うのは同社社長である阿久津五代子さん。何を隠そう、お二人は”元”夫婦。2人の子どもにも恵まれたものの、離婚。しかし、今なおビジネスパートナーとして一緒に仕事をしているのです。さらには阿久津さんが再婚後、新たに子どもができてからも、互いの家を行き来し合う関係。大人同士、子ども同士みな仲良く一緒に食事をしたり、旅行に行ったり、家族ぐるみの付き合いが成立しているというのだから、すてきです。
ここに至るまでは当然、家族の役割、在り方についての模索や衝突が数え切れずあったといいます。それにしてもなぜ、長谷川さんはお福となったのか? 決して「ダイバーシティー」の一言には収まらない、波瀾万丈のお二人と家族の関係を伺いました。
結婚して20億円の借金を抱え、義父と大喧嘩の日々
OFUKUインタビュー(1)夫婦って何だろう? 家族って何だろう?
■借金20億を背負った崖っぷちで出合った、司会という仕事
阿久津さんと長谷川さんが出会ったのはあるブライダルプロダクションでの研修。
長谷川さんの司会のインストラクター役を務めたのが阿久津さんでした。長谷川さんの研修中の飲み込みの早さ、短期間で課題をクリアして何が何でも自分のモノにしようという意気込みに圧倒され、同時に「この人はなんて面白いんだろう」と、阿久津さんは長谷川さんの中に光る底知れぬ才能に驚きました。長谷川さんは当時をこう振り返ります。
「実はちょうどあのころ、実家の事業(老舗の家具店)の負債が膨らみ、連帯保証人として借金を抱えてしまった時期でした。バブル崩壊直後、債務額は20億円になっていました。20代だった自分はその現実をなかなか受け入れられませんした。でも、とにかく働かないことには前に進めない。とにかく稼ぎたいという理由から始めた司会業でした。やってみると学生のころから結婚式の司会を頼まれることも多かったこともあり、自分の得意なこととバチッとはまった。とにかく必死でした。追い詰められていましたから、もうやるしかなかったんです」
長谷川さんの実家は三代続く老舗家具店。祖父の代から続く家業を陰で支えていたのが長谷川さんのお母さん。経済的にも恵まれ、何不自由ない環境の中で、惜しみない愛情を注がれて育ちました。長谷川さんはお母さんが大好きでした。ところが、その最愛の母は長谷川さんが6歳のときに突然他界。幼い長谷川さんは美しかった母を忘れまいと遺されたアルバムを繰り返し眺めていたといいます。
「代々、商売を生業とする家に嫁ぎ、事業を任されていた母の面影は私の結婚観に少なからず影響を及ぼしたかもしれません。結婚は惚れた腫れたの末のゴールインというよりも、家と家の結びつきであり、同時に伴侶には事業を一緒に大きくしていくビジネスパートナーという側面を強く求めるようになっていました」
一方、阿久津さんは最初の結婚に失敗したばかりでした。仕事は順調でしたが、形に残るビジネスをしたいと思っていた矢先、長谷川さんから「独立するために力を貸してほしい」と相談を持ちかけられたのです。もちろん実家の状況もある程度は聞かされていました。
大きな借金を背負ってからのスタートであるがゆえ、決して楽な道のりではないことは分かっていました。当然、「何も好んで苦労を背負うことはない」と両親からは猛反対されます。それでも長谷川さんの中に光る何かを信じていた阿久津さんは「この人に賭けてみよう」と覚悟を決め、同じ事業をするなら家族として一緒のほうがいい、と結婚を決断しました。
間もなく一男一女にも恵まれました。借金の抵当には入っていたものの、大所帯が暮らしていける大きな家はあったので、長谷川さんの実父、(長谷川さんにとっては)継母、祖母、そして二人の子ども、そして長谷川さん夫婦の7人家族の同居生活が始まりました。実父、継母、祖母の協力を得て、一家が協力して動きました。仕事と子育て、家事のバランスをめぐって義父と阿久津さんとの間で喧嘩が絶えなかったといいます。
■ダメ嫁の汚名を引き受ける覚悟で、義父と取っ組み合い寸前の日々
「よき母であるとか、よき妻である以前に、『何としても事業を成功させなければ』。その一心で、とにかく夢中で仕事をしました。私は家事を一切やらないダメなママの汚名を引き受ける覚悟で家事の放棄をしたんです。いい嫁としてきれいごとを言っている場合じゃなかった。幸いなことに、継母が子どもたちの塾の送り迎えから食事の支度まで、まるで継母自身の第二の人生の生きがいとばかりに自分の役割として育児や家事に全面的に協力してくれました」
「私たちは継母のことを”しょうこばば”と呼んでいるのですが、しょうこばばのサポートなくしては今の私はありません」と阿久津さんは言います。
「家事には人それぞれやり方がありますから、継母に任せる以上、私は一切口出ししない、と決めたんです」
しかし、そんな阿久津さんの態度を義父は面白く思わなかったようだと振り返ります。
「『嫁とはこうあるべき』という昔ながらの慣習をよしとする典型的な旧時代の人でしたからね。『毎晩、姑のために嫁が寝具を整えるというのは美しい習慣だったな』などと言われたこともありました。でも下手に期待をさせてはいけませんから、『私がそんなことをするわけがないじゃないですか!』とすぐさま反抗しましたよ。可愛げのない、ダメな嫁だと理解してもらい、義父と境界線を引くことが必要だったんです。『掃除も洗濯もしない嫁なんて』と嫌みを言われたときは『じゃあ、お義父さんが私の代わりに仕事をしてきてくれますか?』と言い返しました」
義父はそれまで何十人もの部下を抱え、ずっと人の上に立って事業をしてきた人。阿久津さんのように逆らう人はこれまでいなかったはずです。理論で対抗しても駄目だと思った阿久津さんは、感情に訴える作戦をあえて選びました。
「動物が命を張ってマウンティングしあうみたいに、上から押さえつけるには感情を爆発させるしかなかった(笑)。激高した義父が『何を?!』と私の胸ぐらをつかみ、取っ組み合いの喧嘩寸前の言い合いをすることもあったほど。でも私も負けていませんでしたよ。『お義父さんが謝らなければ、私は家に帰りません!』と家出をしたこともあります。口にはしませんでしたが、義父には事業を失敗した借財があり、ダメ嫁でも私が働くことがいいことだと義父自身、心の中では思っていたようです。何よりも救いだったのは2人が衝突するたびに、しょうこばばが私のことを庇い、いつも味方してくれたことです。本当にありがたかったですね。長谷川さんは一人っ子の長男です。実母だったらこうはいかなかったはず(笑)」
「取引先に行く交通費にも事欠くようなどん底の生活で、なりふりかまっていられなかったこともありますが、『私一人ではできません。助けてください』と言葉にすることで開かれる扉があったと今では思えます。前の結婚で失敗したときの私は世の中が望むよい嫁を演じようと無理して何でも一人で抱えていました。でも人によく思われたところで、誰も助けてくれないし、何も解決しないですからね」
当時の景気のおかげもあり、ブライダル事業はたちまち軌道に乗り、経営は安定していきます。さらに銀行が合併するタイミングで不良債権処理で20億円の借金問題も解決しました。社員も増え、結婚する人口も多く、会社は右肩上がりに成長していきます。ところが、このころから夫婦としての二人の間には擦れ違いが生まれはじめ、喧嘩が絶えない毎日。
やがて二人は……。
再婚後も元夫&義父母&子どもたちと仲むつまじく
OFUKUインタビュー(2) 2つの家族が”家”を越え、共に仲良く暮らすことはできるのか?
■事業回復の陰ですれ違う夫婦。けんかが絶えず、離婚を決意
「ビジネスは約束がすべてという世界です。思い返せば、知らず知らず、私は夫婦の間にもそのルールを持ち込んでいました。約束を破ったり、毎晩帰宅が遅かったりする長谷川さんに対して、私は毎日イライラカリカリしていました。長谷川さんは何も言わずに、ふといなくなってしまうこともしばしば。その訳を問い詰めると『単に一人になりたかっただけ』、と一言。がんじがらめになっていた当時の私には、そんな言い訳が理解できるはずもありませんでした」(阿久津さん)
ぎくしゃくした関係を解消するために離婚を選んだ二人。ところが夫婦としては破綻したものの、ビジネスパートナーとしての相性は互いに以前と変わらず申し分ない。職場ではおしどり夫婦と言われ続けたほど。2人の子どもを母親としてしっかり育てたいと決めていたので、別れても仕事でのパートナー関係は解消せず、一緒に働き続けることを選択。周囲の人は「どうせ長くは続かない。お金のことで絶対もめるに決まっている」と噂していたそうですが、ビジネスパ―トナーとしての良好な関係は現在に至るまで円満です。見逃せないのは離婚後も以前と変わらず同じ家に住み、一緒に子育てをする暮らしを続けたこと。
■離婚後も、仕事も生活も変えなかった
「私は離婚することで驚くほど、心が自由になれたんです。長谷川さんにたとえ約束を破られても、帰りが遅くても、驚くほど全く気にならなくなりました。今思えば、『夫婦はかくあるべき』という世間一般の家庭像に私自身が一番縛られていたんですよね。私にとって子どもは絶対の存在なので、長谷川さんが子どもたちの父である以上、絶対的な存在だということは変わりません。『離婚しても、ママとパパは何も変わらないよ』とあえて子どもたちにも言い続けることで、普通の夫婦よりも深い結びつきがあることを示してきました。 私に新しい家族ができてからも子どもたちにうそや隠し事は一切ありません」(阿久津さん)
一方、離婚を切り出され「内心びびっていた」という長谷川さんは「離婚してもこれまで通り何も変わらず一緒に暮らし続けるなんていう関係が築けるなど、実はしばらく理解できていなかった」と振り返ります。
「法的な保障がなくなった関係ゆえにいつか突然解消されることもあるだろうと、どこかで不安におびえていました。以前より相手に気を使うようになったことも確かです。でも次第に『こういう関係も本当にありなんだ』と思えるようになりました。とはいえ、やはりそれにはかなり時間がかかりましたよ(笑)」(長谷川さん)
最初は半信半疑でいた長谷川さんの実父も継母も、「本当にこういう関係もありなんだ」と思うように。そればかりか以前にも増して、家族としての役割や距離が明確になり、かえって互いの絆が深まっていく実感があったそう。やがて阿久津さんは新しい伴侶を得て、さらにもう一人子どもを授かるという展開になるまでは離婚前と変わらない暮らしが続いたといいます。
阿久津さんの再婚後は、長谷川さんが2人の子どもたちと祖父母と一緒に暮し、阿久津さんは新しい家族との住まいを構えることになります。うそや隠し事は一切なく子どもに事情を話したとはいえ、子どもたちはまだ小学生。本当の意味で理解するのは、やはり難しかったよう。「ママは何で帰ってこないの?」とさびしがられたため、元の家に阿久津さんの部屋は残したまま、阿久津さんが双方の家を行き来する生活をしばらく続けることにしたそうです。
そして、子どもたちが大きくなって(現在19歳、17歳、11歳)事情を理解した今でも、阿久津さんは平日と週末で生活の場を分け、二つの家を行き来する生活を続けています。もちろん阿久津さんの新しいパートナーも、互いの子ども同士も合意の上です。時には全員そろって食事に行ったり、旅行したりという、家族ぐるみの付き合いが自然な形で続いているというのだからすてきです。
阿久津さんの新しいパートナーと長谷川さんが二人だけでお茶を飲んだり、和やかに世間話をしたりすることもあり、阿久津さんの3番目のお子さんも長谷川さんに懐いているそう。血はつながっていないけれど、親戚の叔父さんよりももっと深くて近いつながりを感じ合っていて、互いのことを本当に大切に思っているのが伝わってきました。
「『うちの両親はどうやら世の中の親とは違うみたいだ』と最初は確かに子どもたちも戸惑っていたはず。ところが、父が他界し、法事の席でいきなり長男が親戚一同に向かってスピーチを始めたことがあったんです。『うちの両親はちょっと変わっているけど、いつも僕たちのことを考えてくれたし、自分の好きなことをして生きていきなさいと応援し続けてくれている。だから本当に感謝している』と。うれしかったですね」(長谷川さん)
■タイミングに合わせて、適材適所で役割分担
阿久津さんは「私は決してキャリア志向のタイプではなかった」と言います。家族全体の幸せを考えたときに、やむにやまれず、仕方なくこうするほかなかった、と。
「長い人生を考えれば、誰が家事をしてもいいし、誰が仕事をしてもいいはず。家族みんながそれぞれの幸せを考え、その時々のタイミングに合わせ適材適所で役割分担することはママ一人の問題ではなく、家族全員の問題だと思うのです。
けんかばかりしていた”元”義父は数年前に他界してしまいましたが、最後は私のことを実の娘のようにかわいがってくれました。命懸けのけんかもしましたが(笑)、自分をさらけ出して衝突することで分かりあえることもやっぱりあるんです。子育ても仕事も、自分をとりつくろって一人で抱え込んでも、いいことなんか何もありませんから。
『一人では何もできないから助けてほしい』。そう言葉にするのは、確かに勇気がいりますよね。誰しもいい母、いい妻だと思われたい見えもあるから。でも、勇気を出して、ありのままの自分をさらけ出せば、開けてくる扉があるんです」
阿久津さんはそれこそが”開運の秘訣”と笑います。「開運」とは面白い受け止め方だと思いませんか? 聞けば、ハセガワエスティは”子宝事務所”と呼ばれているそう。
ブライダル業界では司会を務める女性のキャリアが波に乗ってくる需要のピークと女性のライフイベントが重なるため、彼女たちに仕事を続けてほしいという思いから認可外保育園を創設しました。認可外保育園を事業として展開することで、ワーママたちをサポートしているのです。果たして、人呼んで”開運事務所”とは一体、どんな場所なのでしょうか?
人気男性司会者 女形のカツラと衣装で人生が急展開
OFUKUインタビュー(3) 20億円借金で人生のどん底に。「もうどうにでもなれ」と銀座の街に飛び出した
■社内託児所から始まった「南青山たんぽぽ保育所」
株式会社ハセガワエスティは現在、ブライダル司会・演出業の最大手として年間1万8000件以上の映像・音響プロデュースを手掛けるだけでなく、婚活エージェントや海外ブランドコスメの輸入販売業など6つのグループ会社を有しています。その事業内容の一つには認可外保育園「南青山たんぽぽ保育所」の運営も。
この保育園はもともと司会業として需要のピークを迎える30?40代の女性社員が結婚、出産してもなお、仕事を続けられるように、福利厚生として社内完備されていた小さな施設が始まりだったとか。阿久津さん自身、事業拡大を推進してきた経営者であると同時に三児の母であることから「結婚しても子どもができても仕事は手放してはもったいない」と常々社員に言い聞かせているといいます。
「仕事から長く離れると、司会者としてのリズムや勘が鈍ってしまうんです。月1本でもこなし続けることで仕事を辞めなくてもいいように」と、後輩たちが行き先を選べる道を用意したいと阿久津さんは考え、社内託児所を始めることに。
やがて子宝事務所と呼ばれるほど働くママが増え、手狭になった社内託児所を社外に移し、保育所を完備。規模が小さいため、認可外ではあるものの、今では同社の社員の福利厚生施設として役割を果たすだけではなく、地域の働くママたちの利用も増え、常に予約待ちの状態が続いているといいます。「保育所経営を事業にしたのは、子育てだけでなく、キャリアとの両立の必要性を阿久津さん自身が経験上、感じたからですか?」と尋ねると、「全然そんなことはないんです。ただ、人生80年時代の今、うっかり仕事を辞めてしまうと、老後に困るでしょう? それだけの理由です」と笑いながら即答。
何でも大好きな作家、遠藤周作の影響もあって「人間は死ぬときが大事」だという終末思想のようなものが阿久津さんの人生設計の根底にあるのだそうです。
「子育ての期間は長いようで、案外短いものです。子どもが親の手を離れてからの人生のほうが長いんですから! せっかく仕事を続けるなら自分が得意な仕事のほうが幸せですよね? 育児を理由に仕事にブランクができてしまうと、復帰するのもなかなか難しい。そんな理由で好きな仕事を諦めなくてすむように、一時期はお給料の半分が保育費に消えたとしても、それは未来の自分への投資だと思って仕事は続けてほしいんです」
■OFUKU効果で子宝事務所がパワースポットと呼ばれるように
「南青山たんぽぽ保育所」を運営するハセガワエスティが子宝事務所と呼ばれるのには、もう一つ理由があります。それはやはり、OFUKUの存在が大きい。最後に長谷川さんがOFUKUになった訳を明かします。
きっかけは28歳で20億円の借金を背負い、崖っぷちに立たされた長谷川さんの目に飛び込んできたカツラと衣装。大学時代から続けていた芝居の舞台で使ったものが、そのときたまたま事務所にあったことがすべての始まり。
「人生のどん底で、もうどうにでもなれ、という気持ちがあったのも確かです。誰に頼まれたわけでもないのに、ふと、『これを着て、銀座に出かけてみようかな』と思ったんです」
「地下鉄の中で『どこか変なところはないかな』って車窓に映る自分をチェックしたりして。全身変なんですけど(笑)。ドキドキしながら銀座に向かいました。三越界隈で若い女性に話しかけられ、お茶をすることに。2?3時間も他愛ないおしゃべりをした後、その子が『今度はいつ来るんですか?』って聞いてきたんですよ。そう言われたので、『じゃあ来週ね』と約束して。それが最初でした。そういって別れた後、それまでの暗い気分が吹き飛んで、なんだか理由も分からず、ワクワクしている自分に気づきました。それ以来”はまって”しまい、日本橋や伊勢丹に繰り出しては警備員さんに呼び止められて怒られて……」
OFUKUに変身することで、自分が変わった。長谷川さんはそう言います。まるで幽体離脱でもしているかのように、真俯瞰から自分を見ているもう一人の自分。「八方塞がりの状況も俯瞰して眺めれば、何とかなる。大丈夫かもしれない、と自然に思えてきた」のだとか。ある日、とあるバーで神秘的な女性から「お福!」と呼び止められたのがきっかけでOFUKUと名乗るようになったそうです。
「OFUKUになることで、どんな困難も『大丈夫、何とかなる』とちっぽけなことに思えてきた。もともとは自分自身を鼓舞するために始めた格好でしたが、次第に『OFUKUに会うと元気になる』『幸せになる』という言い伝えが一人歩きし始めたんです。なんだか、人のためにもなっているようだ、と気づいたとき、OFUKUの存在が自分の中でどんどん大きくなっていきました」
■自分を変えることで、新しい世界が見えてくる
ブライダル業界でのお祝い事の席はもちろんのこと、OFUKUとして海外に日本文化を伝える祭典に幸せの伝道師として招かれたり、モデレーターを務めたり。JETRO食の祭典では日本代表として農林水産省から招かれたり、海外の放送局から取材依頼があったり。評判が評判を呼び、今では国内外からオファーが途絶えない、知る人ぞ知る人気者に。
最近では、文部科学省国際教育推進課の招きで、全国の高校生を前に「一歩踏み出すために必要なこと」「言葉を超えたコミュニケーション」というテーマでの講演依頼もこなすなど、「開運」のためのアドバイスを求められることも増えてきたそうです。
気になるのはOFUKUを見る人々の反応。もちろん、人それぞれ。フレンドリーに話しかけてくる人もいれば、存在しないがごとく目を背ける人も。
「追い込まれたときに、自分自身OFUKUで救われたように、『何だ、あれ?』と笑うことでスイッチが切り替わることってあるんですよ。誰かにとってそんなきっかけになれればうれしいのでOFUKUを続けています。思い返せば、人生のどん底から這い上がったことそのものが、OFUKU効果かもしれないですね」
「勇気を出してありのままの自分をさらけだせば、開けてくる扉がある」
そんな阿久津さんの言葉も、OFUKUにつながっているようです。
以上、取材と編集記事を書いてくださった、小田さんと砂塚さん、
お二人とも強く美しく女性としての生き方を楽しんでいらっしゃいました。
有意義なインタビュー時間を、本当にありがとうございます。